愛憎と苔の祗王寺(PART 2)
愛憎と苔の祗王寺(PART 2)
祗王寺の庵主は智照尼(ちしょうに)と呼ばれる尼で、元は妓籍に身をおいていた人である。
大阪花柳界で半玉(はんぎょく)として売り出し名を挙げたが、当時、恋仲だった贔屓客に操を疑われ、その潔白を証明するために自ら小指を切り落としたという伝説の持ち主である。
小指を失ってからは東京・新橋花柳界に移り、照葉の名で人気を集めたが、その後、結婚、離婚を繰り返し、職も芸者から女優、バーのマダムと流転を重ね、剃髪して尼になった人だった。
瀬戸内晴美著『女徳』のモデルとしても知られる智照尼は、芸妓時代から俳句を嗜(たしな)み、文学好きであった。
そのため、東京の文士や芸術家たちと親交が深く伊藤(道郎)のほかにも川口松太郎や里見らが、よく祗王寺を訪ねた。
そんな縁から秀(ひで:「おそめ」のマダム)も智照尼と親しくつき合っていた。女友達のできにくい秀であったが、その一方で年上の剛毅な気性の女たちからは徹底して好かれる。智照尼も、二周り以上も年下である秀のことを可愛がった。
秀は、ふらりと弁当と酒を持って祗王寺を訪ねた。今でこそ観光スポットとして人気を集める祗王寺だが、当時は荒れ果てた状態で、「おそめ」の客に奉加帳を回して修繕の費用を作り、届けたこともあった。また、智照尼も、御高祖頭巾(おこそずきん)をかぶって、ちょくちょく「おそめ」まで飲みにきた。そんな間柄のふたりだった。
(注1: 写真はデンマンが貼り付けました。)
(注2: 「里見(とん)らが、よく祗王寺を訪ねた」 この部分が文字化けするかもしれません。 名前の「とん」は常用漢字ではないので、もし、あなたのシステムに、この文字を表示するフォント[font]が無いと文字化けします)
149-150ページ
『おそめ』 著者: 石井妙子
2006年1月24日初版発行
発行所: 株式会社 洋泉社
あらっ。。。祗王寺の庵主さんは波乱に飛んだ人生を歩まれたのですわね。
そうなのですよう。 まるで祗王のような波乱に飛んだ人生ではありませんか!
つまり、祗王寺の庵主さんの人生をデンマンさんは祗王の人生に重ねて見たのですか?
そうなのですよう。。。なんとなく不思議ではありませんか。。。因縁(いんねん)というのか。。。祗王の霊を鎮魂し、祀(まつ)る庵主さんが同じような波乱の人生を歩んでいた。
デンマンさんは、その事が言いたかったのですか?
いや。。。その事だけじゃないのですよう。
他に何を。。。?
あのねぇ~、智照尼さんは瀬戸内晴美著『女徳』のモデルとしても知られているのですよ。
瀬戸内晴美さんと言うと、現在の寂聴さんですわね?!
そうですよう。 寂聴さんの人生も波乱に富んでいるのですよう。
マジで。。。?
ウィキペディアには次のように書いてあります。
瀬戸内寂聴
1922年5月15日生まれ。
日本の小説家、天台宗の尼僧。
旧名は瀬戸内 晴美(せとうち はるみ)。
僧位は僧正。
1997年文化功労者、2006年文化勲章。
学歴は徳島県立高等女学校(現:徳島県立城東高等学校)、東京女子大学国語専攻部卒業。
徳島県徳島市名誉市民の称号を取得。
京都市名誉市民。
元天台寺住職現名誉住職。
比叡山延暦寺禅光坊住職。
元敦賀短期大学学長。
代表作には『夏の終り』や『花に問え』『場所』など多数。
近年では『源氏物語』に関連する著作が多い。
これまでの著作により多くの文学賞を受賞した。
経歴
徳島県徳島市塀裏町の仏壇店(瀬戸内商店)を営む三谷家の次女として生まれ、後に父が従祖母の家である瀬戸内家養子となり、女学校時代に晴美も瀬戸内に改姓。
東京女子大学在学中に結婚し、夫の任地北京に同行。
1946年に帰国し、夫の教え子と恋に落ち、夫と長女を残し家を出て京都で生活。
大翠書院などに勤めながら、初めて書いた小説「ピグマリオンの恋」を福田恆存に送る。
1950年に正式な離婚をし、東京へ行き本格的に小説家を目指し、三谷晴美のペンネームで少女小説を投稿し『少女世界』誌に掲載され、三谷佐知子のペンネームで『ひまわり』誌の懸賞小説に入選。
少女世界社、ひまわり社、小学館、講談社で少女小説や童話を書く。
また丹羽文雄を訪ねて同人誌『文学者』に参加、解散後は『Z』に参加。
長女とは後年和解する。
1956年、処女作「痛い靴」を『文学者』に発表、1957年に「女子大生・曲愛玲」で新潮同人雑誌賞を受賞。
その受賞第1作『花芯』で、ポルノ小説であるとの批判にさらされ、「子宮作家」とまで呼ばれるようになる。
その後数年間は文芸雑誌からの執筆依頼がなくなり、『講談倶楽部』『婦人公論』その他の大衆雑誌、週刊誌等で作品を発表。
1959年から同人誌『無名誌』に『田村俊子』の連載を開始。
並行して『東京新聞』に初の長編小説『女の海』を連載。
この時期の不倫の恋愛体験を描いた『夏の終り』で1963年の女流文学賞を受賞し、作家としての地位を確立する。
以後数多くの恋愛小説、伝記小説を書き人気作家となるが、30年間、純文学の賞も大衆文学の賞ももらえないという秘かな不遇のうちにあった。
1992年、西行を描いた『花に問え』で谷崎潤一郎賞を受賞した。
『源氏物語』の現代語訳でもその名を知られている。
1973年に今春聴(今東光)大僧正を師僧として中尊寺にて天台宗で得度、法名を寂聴とする。
翌年、比叡山で60日間の行を経て、京都嵯峨野で寂庵と名付けた庵に居す。
尼僧としての活動も熱心で、週末には青空説法(天台寺説法)として、法話を行っていた。
1988年に出した『寂庵 般若心経』は1年で43万部を売るベストセラーとなる。
2005年には、彼女を主人公としたテレビドラマ『女の一代記』が放映された。
この中でも、東京に住みだした後、二人の男性と恋愛関係にあった、と語っている。
僧侶になったあとは男性との関係をいっさい断っている。
地方講演などでは主に「笑うこと」が大切であるということを説き、座右の銘は「生きることは愛すること」だという。
2008年には、いわゆる「ケータイ小説」のジャンルにも進出。
スターツ出版が運営するケータイ小説サイト「野いちご」にて、小説「あしたの虹」を「ぱーぷる」のペンネームで執筆していたことを、9月24日の記者会見で明らかにした。
出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
瀬戸内さんが尼さんになったのは、智照尼(ちしょうに)さんの影響があったとデンマンさんは見ているのですか?
そうですよう。 小百合さんだって、智照尼さんの略歴を読めば寂聴さんの波乱に富んだ人生と似ていると思うでしょう?
そうですわね。
しかも、寂聴さんは智照尼さんをモデルにして小説を書いているほどですからね。
つまり、寂聴さんも智照尼さんも、尼になったという心の軌跡をたどってゆくと祗王にゆきつく。。。デンマンさんは、その事が言いたかったのですか?
小百合さんは、僕の心が読めるのですねぇ~。。。うししししし。。。
【卑弥子の独り言】
ですってぇ~。。。
小百合さんでなくても、そのぐらいのことは誰だって分かるのでござ~♪~ますわ。
んもお~~。
あなただってぇ、そう思うでしょう?
とにかく、次回も興味深い話題になるはずですわ。
だから、あなたもどうか、また明後日、読みに戻ってきてくださいませぇ。
じゃあねぇ~。。。
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こんにちは、ジューンです。
祗王寺のお庭って、
本当にきれいですよね。
わたしにも少しは日本の庭園の美しさが
分かるようになりました。


祗王寺の紅葉の見ごろは、
少し遅めの12月上旬ですって。
庭苔の緑に、散り始めた紅葉が
朱をさして美しいでしょうね。
わたしの紅葉の思い出は、何と言っても
安芸(あき)の宮島です。


わたしが行ったのは、もう10年ほど前になりますが、
今から 5年ほど前に大きな台風の被害にあって
修復工事が行われたと聞いていますが、
現在、どうなっているのでしょうか?
機会があったら、また、素晴しい紅葉を
見に行きたいと思っています。

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では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。
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