愛の人生とカフカ(PART 2 OF 4)
愛の人生とカフカ(PART 2 OF 4)
分かるやろう?。。。デカルト先生は上のように言うたのやがなァ。
上の格言ならばわたしも知ってますう。
そうやろう?。。。夏目先生かてぇ、わざわざ小説の中でニャンニャンに次のように言わせているほどなのやァ。
人間は長い歴史の中で
こんな当たり前のことしか
思いつかない
愚かな生き物だ。
でも、次の格言がわたしの存在理由をサポートするようには思えんわ。
我思う、ゆえに我あり
あのなァ、ちょっと言い方を変えれば、めれちゃんの存在理由などすぐに分かることなのやでぇ~。
あんさんは、どのように言うつもりやのォ~?
わてならば次のように言うねん。
人生に生きる意味を見出して生きる。
ゆえに我あり。
きゃははははは。。。

デンマン
これで、めれちゃんの存在理由もはっきりとするやろう?
わたしが人生を生きる意味って何ですの?
めれちゃん。。。惚(とぼ)けるのか?
惚けてえ~へんでぇ~。。。わたしはマジで、あんさんに尋ねてますねん。
あのなァ~、そんなら、めれちゃんはすっかり忘れてしもうたのや。
わたしが何を忘れたと、あんさんは言わはるのォ~?
めれちゃんは次のように書いてたのやァ。
めれんげは、
それでも詩人
テーマ:文学がテーマっす
混沌とした日々が続いています。
めれんげは、詩のことばっかり考えてます。
いや。考えていることを、
如何にして詩にするかということで
頭がいっぱいなのです。
このブログには詩は書かないけれど、
「即興の詩」
「極私的詩集」には、
ほぼ毎日詩をアップしているのです。
恋愛詩。
ダークな詩。
その両方は、めれんげという車の
別々の車輪みたいなもので、
それらがなければ、わたしの活動はストップ
してしまいます。
世に認められたい気持ちはあるけれど、
自分の詩が、どこまで通用するのか、
さっぱり自信がないんですよね(泣)
ただ書きつづけて、
死ぬまで書き続けて、
わたしの消滅のあとも、
作品だけは残ればいいなあ...
なーんて思っています。
まるで、カフカのように
奇特な友人がいればなあ...
なーんて消極的でへなちょこなわたしです。
by merange (めれんげ)
2009-08-21 19:17:19
『めれんげの原材料 - めれんげは、それでも詩人』より
めれちゃんは、こないに書いていたやないかいなァ!
あんさんは、わたしの書いたものは何でも保存しておくのォ~?
そうやァ。。。このような時にすぐに持ち出せるように、わては大切にしまっておくのやでぇ~。
確かに、わたしは詩人として世に認められたい気持ちがありますねん。。。でも、上の手記に書いたとおり、自分の詩が、どこまで通用するのか、さっぱり自信がないのですう。(泣)
あのなァ~、世に認められるかどうか?そのような事は、考えんでもええねん。画家のゴッホを見てみィ~なァ。ゴッホは死んでから世に認められたのやでぇ~。めれちゃんも知ってるやろう?
知ってますう。
めれちゃんのお気に入りのカフカかてぇ、世界的に認められるようになったのは死んでからのことなのやァ。
フランツ・カフカ
(Franz Kafka)
誕生: 1883年7月3日
オーストリア=ハンガリー帝国、プラハ
死没: 1924年6月3日(満40歳没)
フランツ・カフカは、出生地に即せば現在のチェコ出身のドイツ語作家。
プラハのユダヤ人の家庭に生まれ、法律を学んだのち保険局に勤めながら作品を執筆、常に不安と孤独の漂う、夢の世界を思わせるような独特の小説作品を残した。
その著作は数編の長編小説と多数の短編、日記および恋人などに宛てた膨大な量の手紙から成る。
生前は『変身』など数冊の著書が知られるのみだったが、死後に友人マックス・ブロートによって未完の長編『審判』『城』『失踪者』を始めとする遺稿が発表されてから再評価を受けた。
特に実存主義から注目されたことによって世界的なブームとなった。
現在ではジェイムズ・ジョイス、マルセル・プルーストと並び20世紀の文学を代表する作家と見なされている。
人柄
生前のカフカについては友人、知人たちによる多くの証言が残っている。
それらによればカフカはいたって物静かで目立たない人物であった。
人の集まる場ではたいてい聞き役に回り、たまに意見を求められるとユーモアを混じえ、時には比喩を借りて話し、意見を言い終わるとまた聞き役に戻った。
職場では常に礼儀正しく、上司や同僚にも愛され、敵は誰一人いなかった。
掃除婦に会った際にも挨拶を返すだけでなく、相手の健康や生活を案じるような一言二言を必ず付け加えたという。
掃除婦の一人はカフカについて「あのかたは、ほかのどの同僚ともちがっていました。まるきり別の人でした」と話している。
晩年は年少者の人の相談や対話の相手をすることも多く、1919年にサナトリウムで出会った少女ミンツェ・アイスナーとは死の年まで文通が続いた。
1920年には職場の同僚の息子で作家志望の青年であったグスタフ・ヤノーホと知り合い、後々まで彼の対話の相手となった。
ヤノーホは後にこの体験を回想して『カフカとの対話』(1951年)を執筆し、後のカフカ受容に影響を与えることになる。
1921年からは16歳年下の医学生ローベルト・クロプシュトックとも親しくなり、作家に憧れて進路に悩んでいた彼の相談相手になった。
カフカの晩年のエピソードとして、ドーラ・ディアマントより次のような話が伝えられている。
ベルリン時代、カフカとドーラはシュテーグリッツ公園をよく散歩していたが、ある日ここで人形を失くして泣いている少女に出会った。
カフカは少女を慰めるために「君のお人形はね、ちょっと旅行に出かけただけなんだ」と話し、翌日から少女のために毎日、「人形が旅先から送ってきた」手紙を書いた。
この人形通信はカフカがプラハに戻らざるを得なくなるまで何週間も続けられ、ベルリンを去る際にもカフカはその少女に一つの人形を手渡し、それが「長い旅の間に多少の変貌を遂げた」かつての人形なのだと説明することを忘れなかった。
女性関係
カフカにはフェリーツェ、ミレナ、ユーリエ、ドーラの4人の恋人の他にも様々な女性体験があったことが、残された日記、手紙などから分かっている。
カフカは1917年にミレナ・イェンスカに宛てた手紙の中で自身の性的初体験について綴っており、それによればカフカが20歳のとき、大学の中間試験のためにローマ法を勉強していた頃に、向かいの洋服店の店員をしていた女性と関係を持ち2度ほど逢瀬を重ねたという。
大学最後の年にはシレジアのツックマンテルにあるサナトリウムで、名前の伝わっていない人妻の女性と恋をし、翌年の夏にも同じ場所で再会した。
この女性は初期の作品『田舎の婚礼準備』に登場する女性のモデルになったと考えられている。
就職の前後にはモラヴィアのサナトリウムでヘートヴィヒ・ヴァイラーという女性と恋をし、就職後の新生活の様子を彼女への手紙のなかで綴っている。
この女性については詳しいことは分かっていない。
カフカは恋人ができると短期間に多数の手紙を相手に送った。
時には日に二度送ることもあり、相手の返事が滞ると催促の手紙を書き、返事を書かない理由を聞いた。
2度婚約したフェリーツェ・バウアーへは、1912年から1917年までの間に500通を越える手紙を送っている。
フェリーツェはカフカと別れて別の男性と結婚してからもこれらの手紙を保存し、ナチスを逃れてアメリカへ渡った際にも処分しなかった。
ミレナ・イェンスカは強制収容所で命を落としたが、1939年ナチスのプラハ侵攻直前にヴィリー・ハースにカフカの手紙を託し、後世に残された。
これらの手紙はカフカの死後『フェリーツェへの手紙』(1967年)、『ミレナへの手紙』(1952年、増補版1983年)として公刊されており、前者は原著で700ページ、後者は400ページを越える大部の書籍である。
カフカ自身は恋人との関係が終わると受け取った手紙を処分しており、このため恋人からの手紙はほとんど残されていない。
生前の評価
カフカの生前の名声はささやかなものではあったが、(主に同業者などの)少数の読者に注目されており、決して無名の作家だったわけではない。
カフカについての公刊された最も早い評は友人マックス・ブロートによるもので、1907年2月にベルリンの雑誌『現代』にて、著作家・編集者フランツ・ブライと同じ傾向をもつ作家としてハインリヒ・マン、フランク・ヴェーデキント、グスタフ・マイリンクとともにカフカの名を挙げた。
このときカフカは知人の前で作品を朗読していたのみで、まだ出版物には1作も発表していなかった。
死後の名声
カフカの死後、友人マックス・ブロートが遺稿を整理し、『審判』(1925年)、『城』(1926年)、『アメリカ』(1927年)と未完の長編を続けて刊行していった。
1926年には、カフカを認めていたドイツの批評家・編集者のヴィリー・ハースが雑誌『文学世界』でカフカの特集を組んでいる。
1931年には未完の短編を集めて『万里の長城』が刊行され、1935年からはナチス政権下で困難に遭いながらカフカ全集の刊行が行なわれた。
後述するようにブロートやハースはカフカをユダヤ教に引き付ける作品解釈を行い、1930年代までにいくつかのカフカ論を発表しているが、しかしカフカの名声が高まっていくのはまずドイツ語圏の外においてであった。
フランスでは1928年に、代表的な文芸誌『新フランス評論』にてA・ヴィアラットによる『変身』の仏訳が3号にわたって掲載され、続いて1930年にはピエール・クロソウスキーによる「判決」の仏訳が、1933年にはヴィアラットの訳による『審判』が出ている。
これらの作品はまずシュルレアリストたちによって注目され、シュルレアリスムの指導者であるアンドレ・ブルトンをはじめ、マヤ・ゴート、マルセル・ルコントらがカフカに言及した。彼らのカフカへの理解はブロートやハースらによる宗教的解釈に沿ったものであったが、特にその夢と現実が入り混じったような表現に注目し、カフカをシュルレアリスムの先駆者と見なした。
第二次大戦中、フランスでは実存主義の文学が盛んになり、カフカはサルトル、カミュら実存主義の文学者たちから注目された。
サルトルはカフカへのまとまった文章は残していないものの、カフカを実存主義文学の先駆者として評価し、書評やエッセイなどで頻繁にカフカに言及している。
またサルトルはハイデガーの思想における「現存在」「実存」「真正」といった範疇もカフカの作品を通じて立証しようとした。
Albert Camus (アルベール・カミュ)
カミュは「フランツ・カフカの作品における希望と不条理」(『シーシュポスの神話』付録、1943年)において、カフカの作品を実存主義の文脈における「不条理な作品」と見なし、『審判』などの作品を評価した。
これらの実存主義文学における評価によって、カフカの国際的な名声は決定的なものとなった。
日本における状況
日本では1936年(昭和11年)のごく早い時期に岡村弘による「カフカ論」が書かれているが、本格的な受容が始まるのは戦後になってからである。
最初の翻訳は1940年(昭和15年)の本野亨一訳による『審判』(白水社)であるが、当時6,7冊しか売れなかったという。
また中島敦は早くからカフカを評価しており、中島の短編「狼疾記」(1942年)にはカフカの「巣穴」への言及が見られる。
戦後は代表作『変身』を始めとして多数の翻訳が出ており、1953年(昭和28年)にはブロート版全集を底本とした『カフカ全集』が原田義人、高橋義孝、山下肇らの訳によって刊行(3巻。4-6巻は1976年)。
1981年(昭和56年)からはブロート版全集第3版を底本とした全11巻の全集が新たに刊行された。
これらに伴って研究者による作家論や、海外の研究書の翻訳なども多くなされている。
2001年(平成13年)からは池内紀によって、カフカの草稿に忠実な手稿版全集を底本とした『カフカ小説全集』全6巻が刊行された。
池内はこの前後からカフカに関する著書を多数出しており、2004年には評伝『カフカの生涯』(『大航海』に1997年から2002年まで連載されたもの)を出版している。
このほか後藤明生『カフカの迷宮』(岩波書店、1987年)、室井光広『カフカ入門』(東海大学出版会、2007年)、保坂和志『カフカの「城」ノート』(『新潮』連載、未刊)など、作家によるカフカ論も多い。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
でも、わたしには、カフカの友人のマックス・ブロートのような人物が居(お)りまへん。
居るやんかァ!
どこに。。。?
めれちゃんの目の前に居るやんか!
わたしの目の前ってぇ、あんさんしか居(お)りまへん。
だから、わてがめれちゃんのために“マックス・ブロート”の役を務(つと)めているのやがなァ。
マジで。。。?
やだなあああァ~。。。もう、忘れてしもうたのかァ?
わたしが何を忘れたと、あんさんは言わはるのォ~?
めれちゃんとわての熱い友情を忘れてしもうては困るがなァ!。。。ここに書き出すから、じっくりと読んで思い出してぇ~なァ。
(すぐ下のページへ続く)
このブログへのコメントはmuragonユーザー限定です。